今年の1月中旬の夜のこと。お布団に入り、ウトウトと眠り始めた頃、携帯からけたたましい音が鳴り響いた。
「津波です。高台に避難してください! 津波です。高台に避難してください!」
と、同時に、屋外の防災無線のサイレンがウワーーン、ウワーーンとものすごい音量で鳴り出した。無線でも津波が来ていることを告げている言葉がなんとなく聞こえる。飛び起きて、電気をつけて、メガネをつかんで、近くにあったカーディガンを羽織った。
うちは、目の前は海。海抜2メートル。
地震の揺れは感じなかったから、どこからやってくる津波なのか見当もつかなかったが、とにかくそんなことより、逃げなくては!と思った。よりによって夫のまさしくんは出張中で、家には私と猫5匹しかいなかった。猫たちはサイレンの音にびっくりしているが、幸いなことに逃げ隠れすることなく、目をまん丸にして、停止していた。最年長の兄弟猫ソトとボウを2匹つかんで、車の中にそのまま放り込む。エンジンをかけたところで、心臓が爆発しそうだったので、一呼吸おいて、
「落ち着けー落ち着けー」
と唱え、即座に裏山へ車を走らせた。
奄美大島は平地が一部にしかなく、ほぼ山でできている。大体の民家は海沿いにあり、背後には山があって、避難の時はそれぞれの裏山に逃げるよう、ついこないだ訓練があったばかりだった。
しかし、山に着いて見渡しても、私しかいなくて、一番乗りだった。すると電話が鳴り、メールなどが続々届きはじめた。ニュースで見た遠方の家族や友人たちが、心配して連絡をくれたのだ。とりあえず高いところにいることを伝えて、動向を見守った。
東日本大震災の時は東京に住んでいて、相当な揺れもあったし、恐ろしい津波の映像を何度も見ていた。島に移住を決めた時、津波の心配は常に頭にあった。昔から頻繁に津波に襲われてきた東北地方では、「津波てんでんこ」という言葉があるのもその時に知った。誰かを助けに行って助からないより、てんでんばらばらに逃げ、自分の身は自分で守るというもの。
その言葉を胸に留めていたので、急を要する事態の時は、10歳の猫、ソトとボウだけは連れて、一緒に逃げると決めていた。というのも、この2匹はとても甘えん坊で、たやすく抱きかかえることができる。その他の猫3匹は不穏な空気を感じると捕まえることができない。それに時間を要して全員死ぬよりは、割り切って、窓を開け放ち、うちの津波てんでんこをしようといつもシュミレーションしていたのだ。
実際には、外に逃げられるように窓を開け放つことができなかった。外に出ることができないように網が張ってあるベランダの扉と、せめて家の中の高い部分へ行ける扉を開けてきただけだった。津波が来なかった場合でも、一度外に逃げてしまうと猫たちともう会えなくなるかもしれないという恐怖からだ。
こうやって高台に避難できて、時間の余裕が出来てくると、激しく後悔してくる。もし、津波が来たら、と思うと連れてこなかった3匹のことばかり気になる。
そうしているうちに、車が1台2台と上がってきた。集落の人たちは顔なじみなので心強い。ラジオを持ってる人もいて、情報が入ってきた。遠く離れた海底火山の噴火による、珍しい津波の現象だと知った。夜の避難は、海の様子が見えないので、恐ろしい。こんな時はいつも賑やかな虫や鳥の声が聞こえてこず、静かな山に定期的に鳴る防災無線の津波警報が鳴り響く。
ゆっくり歩いて避難してきた家族も増えて、だんだんと賑やかになってきた。特に子どもたちは夜の山で会えることに興奮している。よく見たら、裸足に草履で軽装なのは私だけで、みんなちゃんと着込んできている。奄美大島とはいえ、1月はさすがに冷え込む。友人家族が住んでいる山の中腹あたりまで少し降りると、靴下と長靴を貸してくれた。津波警報が解除されるまで、一体どのくらいの時間がかかるかもわからなかったし、そのうちにみんなはそれぞれの車で寝はじめた。友人が庭で火を焚いて、暖かいお茶を入れてくれたので、そこで過ごさせてもらった。島では、漁業や農業を営んでいる人が多いため、普段から屋外で炊事する機能が整っている。また暖かい季節が長いのと多湿なので、あまり家を閉めきらず、外との境目が曖昧で、ほぼキャンプのような日々を送っている人も多い。家から続々とイスや簡易ベッドなど運んできて、焚き火で棒に刺したマシュマロを焼いたりして食べた。こういう時、暖かいことと、明かりがあることはすごく大切だと身に沁みる。そのうしろで大はしゃぎする子どもたちを見ていると、3匹の猫たちのことは心配だが、やっと落ち着いてきた。
「朝までとなると、酒でも飲むかー」
など冗談を言いながら、焚き火を囲んで話し続けた。車に残しているソトとボウを見に行くが、一度ドアを開けると甘えて一緒に出たがり、閉めるのが大変だったので、定期的に窓の外から様子を見るだけにした。明け方には、友人がおにぎりを握ってくれて、本当にありがたかった。みんなが避難してきたら、とにかく米を炊いておこうと思ったらしい。さすが。
朝、家に一度戻った。残りの3匹の猫たちも特に変化はなく、落ち着いていたが、帰ってきたソトとボウの匂いを嗅いで、
「どこ行ってたん? 何してたん?」
としきりに聞いているようだった。
そういえば玄関に避難袋を備えてあったと思い出す。結局、津波はうちの町には来なかったけど、とても良い避難訓練になった。
海底火山が再び噴火したというニュースが流れたので、車の中に猫のご飯やトイレ、ケージ、避難袋を運んでおいた。遠いところで発生するので、津波が到達するとしても12時間くらいあるらしく、準備しておけることが救いだった。再噴火はのちに誤報だと知ったが、しばらく家の中の一番高いところで寝た。
初めての津波の避難で、少し自信がついた私は、次は、猫4匹まで捕まえられると思う。あと1匹は普段から抱っこすることは至難の技の子がいるのだ。ただ、それは時間に余裕がある時だけ。次こそは窓を解放して、津波てんでんこできるだろうか。たくさん猫を飼っている身として、課題が残る。
だけど、こういう時に、住民たちが顔なじみであることは、すごく助かると実感した。普段から集落の行事などで連携が取れているし、誰が避難場所にいないかも一目瞭然。自然とみんな声をかけあい、助け合うのが早い。それがいかに安心できることか、そして他愛もない話ができることが、何より心を助けてくれた。
出張中だった夫のまさしくんだけが、遠く離れた場所で心配しすぎて、ひとり不安な夜を過ごしていた。戻ってくると、私よりも悲壮感に満ちていて、それからは綿密な避難計画を立て、躍起になって防災グッズを揃えていた。
「津波です。高台に避難してください! 津波です。高台に避難してください!」
と、同時に、屋外の防災無線のサイレンがウワーーン、ウワーーンとものすごい音量で鳴り出した。無線でも津波が来ていることを告げている言葉がなんとなく聞こえる。飛び起きて、電気をつけて、メガネをつかんで、近くにあったカーディガンを羽織った。
うちは、目の前は海。海抜2メートル。
地震の揺れは感じなかったから、どこからやってくる津波なのか見当もつかなかったが、とにかくそんなことより、逃げなくては!と思った。よりによって夫のまさしくんは出張中で、家には私と猫5匹しかいなかった。猫たちはサイレンの音にびっくりしているが、幸いなことに逃げ隠れすることなく、目をまん丸にして、停止していた。最年長の兄弟猫ソトとボウを2匹つかんで、車の中にそのまま放り込む。エンジンをかけたところで、心臓が爆発しそうだったので、一呼吸おいて、
「落ち着けー落ち着けー」
と唱え、即座に裏山へ車を走らせた。
奄美大島は平地が一部にしかなく、ほぼ山でできている。大体の民家は海沿いにあり、背後には山があって、避難の時はそれぞれの裏山に逃げるよう、ついこないだ訓練があったばかりだった。
しかし、山に着いて見渡しても、私しかいなくて、一番乗りだった。すると電話が鳴り、メールなどが続々届きはじめた。ニュースで見た遠方の家族や友人たちが、心配して連絡をくれたのだ。とりあえず高いところにいることを伝えて、動向を見守った。
東日本大震災の時は東京に住んでいて、相当な揺れもあったし、恐ろしい津波の映像を何度も見ていた。島に移住を決めた時、津波の心配は常に頭にあった。昔から頻繁に津波に襲われてきた東北地方では、「津波てんでんこ」という言葉があるのもその時に知った。誰かを助けに行って助からないより、てんでんばらばらに逃げ、自分の身は自分で守るというもの。
その言葉を胸に留めていたので、急を要する事態の時は、10歳の猫、ソトとボウだけは連れて、一緒に逃げると決めていた。というのも、この2匹はとても甘えん坊で、たやすく抱きかかえることができる。その他の猫3匹は不穏な空気を感じると捕まえることができない。それに時間を要して全員死ぬよりは、割り切って、窓を開け放ち、うちの津波てんでんこをしようといつもシュミレーションしていたのだ。
実際には、外に逃げられるように窓を開け放つことができなかった。外に出ることができないように網が張ってあるベランダの扉と、せめて家の中の高い部分へ行ける扉を開けてきただけだった。津波が来なかった場合でも、一度外に逃げてしまうと猫たちともう会えなくなるかもしれないという恐怖からだ。
こうやって高台に避難できて、時間の余裕が出来てくると、激しく後悔してくる。もし、津波が来たら、と思うと連れてこなかった3匹のことばかり気になる。
そうしているうちに、車が1台2台と上がってきた。集落の人たちは顔なじみなので心強い。ラジオを持ってる人もいて、情報が入ってきた。遠く離れた海底火山の噴火による、珍しい津波の現象だと知った。夜の避難は、海の様子が見えないので、恐ろしい。こんな時はいつも賑やかな虫や鳥の声が聞こえてこず、静かな山に定期的に鳴る防災無線の津波警報が鳴り響く。
ゆっくり歩いて避難してきた家族も増えて、だんだんと賑やかになってきた。特に子どもたちは夜の山で会えることに興奮している。よく見たら、裸足に草履で軽装なのは私だけで、みんなちゃんと着込んできている。奄美大島とはいえ、1月はさすがに冷え込む。友人家族が住んでいる山の中腹あたりまで少し降りると、靴下と長靴を貸してくれた。津波警報が解除されるまで、一体どのくらいの時間がかかるかもわからなかったし、そのうちにみんなはそれぞれの車で寝はじめた。友人が庭で火を焚いて、暖かいお茶を入れてくれたので、そこで過ごさせてもらった。島では、漁業や農業を営んでいる人が多いため、普段から屋外で炊事する機能が整っている。また暖かい季節が長いのと多湿なので、あまり家を閉めきらず、外との境目が曖昧で、ほぼキャンプのような日々を送っている人も多い。家から続々とイスや簡易ベッドなど運んできて、焚き火で棒に刺したマシュマロを焼いたりして食べた。こういう時、暖かいことと、明かりがあることはすごく大切だと身に沁みる。そのうしろで大はしゃぎする子どもたちを見ていると、3匹の猫たちのことは心配だが、やっと落ち着いてきた。
「朝までとなると、酒でも飲むかー」
など冗談を言いながら、焚き火を囲んで話し続けた。車に残しているソトとボウを見に行くが、一度ドアを開けると甘えて一緒に出たがり、閉めるのが大変だったので、定期的に窓の外から様子を見るだけにした。明け方には、友人がおにぎりを握ってくれて、本当にありがたかった。みんなが避難してきたら、とにかく米を炊いておこうと思ったらしい。さすが。
朝、家に一度戻った。残りの3匹の猫たちも特に変化はなく、落ち着いていたが、帰ってきたソトとボウの匂いを嗅いで、
「どこ行ってたん? 何してたん?」
としきりに聞いているようだった。
そういえば玄関に避難袋を備えてあったと思い出す。結局、津波はうちの町には来なかったけど、とても良い避難訓練になった。
海底火山が再び噴火したというニュースが流れたので、車の中に猫のご飯やトイレ、ケージ、避難袋を運んでおいた。遠いところで発生するので、津波が到達するとしても12時間くらいあるらしく、準備しておけることが救いだった。再噴火はのちに誤報だと知ったが、しばらく家の中の一番高いところで寝た。
初めての津波の避難で、少し自信がついた私は、次は、猫4匹まで捕まえられると思う。あと1匹は普段から抱っこすることは至難の技の子がいるのだ。ただ、それは時間に余裕がある時だけ。次こそは窓を解放して、津波てんでんこできるだろうか。たくさん猫を飼っている身として、課題が残る。
だけど、こういう時に、住民たちが顔なじみであることは、すごく助かると実感した。普段から集落の行事などで連携が取れているし、誰が避難場所にいないかも一目瞭然。自然とみんな声をかけあい、助け合うのが早い。それがいかに安心できることか、そして他愛もない話ができることが、何より心を助けてくれた。
出張中だった夫のまさしくんだけが、遠く離れた場所で心配しすぎて、ひとり不安な夜を過ごしていた。戻ってくると、私よりも悲壮感に満ちていて、それからは綿密な避難計画を立て、躍起になって防災グッズを揃えていた。